図書館にてヘイトスピーチ関連の本を借りる。
先日、シアターコモンズで見た田中功起さんの映画がきっかけだ。
あの映画では在日の女性の話がメインで当然のことだがヘイトの人たちはその映画の中ではネガティブに語られるし当然そうした存在になる。そしてまたヘイト側の人たちはユーチューブの目線の入ったヘイトスピーチ中の映像でしか登場しないし、彼らが意見を語ることはその映画の中ではない。
意図的だとは思うけれど、これはかなり不公平だなと思った。
ユダヤ人の虐殺の映像などでナチスが無条件に悪として描かれることはよくあって、その時には不平等だとか感じることはないのだけれど(その心理も考えてみる価値はある)、何故かその映画を見たときはすごく不平等だなと思った。映画の後の話し合いの時間で自分が「何故ヘイトの人たちがヘイトをするのか、その気持ちが気になった」と意見すると在日のモデレーターの方が「ここでそのことについて話すことはない」ときっぱり強めに言われたので余計に気になってしまった。
ヘイトスピーチの方々の動機って何なのだろう。在日の方のせいで何か不利益を直接に被ったのだろうか。例えば親を在日の人に殺されたとしても、在日の人全員を恨むのはおかしい。殺したのはその犯人個人だからだ。自分はこれまで在日の方、中国人、韓国人、たくさん友達ができたが、みんないい人だ。おおらかで情に厚く、九州出身の自分としてはものすごく近しい感覚を覚える。たとえ韓国や中国と日本が戦争をしたとしても、彼らと楽しく過ごした時間や友情が消えてなくなることは決してないだろう。それは政治の問題で個人は関係ないからだ。今回はヘイトスピーチに反対する人の本も、ヘイトスピーチをやってる人の本も借りた。両方読んで分析していきたいと思う。
ただ自分はヘイトスピーチそのものに関しては反対する。
でもヘイトスピーチをする人たちを根絶やしにしたいなどとは絶対に考えない。
なぜそういうことを考える人や実行する人が社会に存在するのかを考えなければいけない。
人間は関係性の生き物だと思うから。
話はちょっと変わるけど、意見の対立する人のことをむやみに嘲ったり、侮辱したりするのも自分は苦手だ。前に国会前のデモに参加したとき、違和感があったのはそのことが原因だ。みんなが「アベは辞めろ、アベは、アベは、アベは…」と首相のことを呼び捨てにしているのがとにかく気になった。相手を人間として見ていないと思った。もしそこにアベさんがいたとしたら、やっぱりみなさん「アベ、お前はなー!」と突っかかっていくのだろうか。自分はまずそういう人もそういう状況も苦手。自分はアベさんはもちろん支持してないけど、同じくらいそういう粗暴な人も支持しない。デモを眺めながら、もうちょっと違うやり方をしないと平行線で終わるだろうなあと感じていた。国にはルールがあってそのルールを握ってるのは政府。ただでさえどっちが勝つかは明白なのに。審判も政府側の人だからファウルを取られれば退場させられてそこで終わり。日本国の警察に警護されながらの反政府デモってそもそも何なんだろうと、警察の道案内でデモに参加しながら考えていた。
関係をつくるのは対立ではなく、相手を理解しようとすることなのではないだろうか。
ヘイトスピーチをする人たちのことを理解しようとすること。
ああいう政治をする人たちのことを理解しようとすること。
好きな人同士で固まって嫌いな人を排斥しようとしても仕方がない。
相手も絶対に同じことをしてくるから。
対立する人や理解できない人が現れたら、それは自分の知らない世界への新しい扉が現れたということだ。
人生は短いんだし、少しでもたくさんの考え方に触れて、知って、死んでいきたい。
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