2018年4月27日金曜日
誰にも観せたくない映画。
編集作業は進み、ほぼ完成と言えるところまでくる。映画は絵と同じで、誰に見せなくても完成と言えるからいい。このまま誰にも観せずに数年が経って、また作り直したくなって作り直してもいいのだ。自分の死後に誰かに観てもらうことだってできる。芸術はコミュニケーションの道具にもなるが、自分にとっての芸術は自分自身のためのもの。行き場がなくて苦しんだ学生時代に希望を与えてくれたのは芸術だったから。自分と対話し、自分を見つめ、自分自身の答えを見つける最も大切な方法。そこに他者が入り込む隙はない。誰かと協働したとしても、そこから導き出される答えは自分だけのものだ。映画に足りなかった音や言葉やシーンを加えながら、その映画を通して自分の思考のカタチを明確にしていく。完全にカタチをとるまで何度でも、何年でも作り続ける。売るために映画を作らなくてもいいからこその特権だ。その特権を最大限に利用して、自分のためだけの映画を作る。もし人に映画を観てもらうとしたら、本当に自分のためだけの、本当に誰にも観せたくないほど愛しい関係になった映画を観てもらいたい。そこにいくまでは何年でも撮って編集して作り続けていたい。大切過ぎて、誰の眼にも触れさせたくないと芯から思える自分自身の映画を。カフカが自分が書き続けてきた小説をカバンに入れたまま誰にも見せずに過ごし、死の間際にあのカバンの中身は全て焼いて欲しいと頼んだそうだが、気持ちはすごく解る。焼かれなかったからこそ、今、カフカの小説は手元にあるのだけれど、そういうものであったからこそ、衝撃を与えたのだと思う。一枚いくらで書かれたものとは、別次元の存在なのである。
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