2016年11月20日日曜日
ノイズの海に泳ぐこと。
音の聴こえない人が目を閉じると、本当に静かで穏やかな世界に行くようです。けれども聴こえる自分にとって音は、決して遮断することが出来ず、どこまでもつきまとってきて、いろんなカタチで感情に影響してくる存在なのです。電車の音、ハイヒールの音、話し声、風の音、音が聴こえない時はありません。そしてそのどの音にもひとつひとつエネルギーがあって、それがいつも心を揺さぶってきます。五感の中でも最も受動的な(いや、逆に最も能動的なのか?)存在である聴覚は、耳から流れ込む様々な音をそれが何の音であるかを分類して整理し、人の心がなるべく掻き乱されることのないようにしているのではないでしょうか。例えば、聞いたことのない音が耳に入ったとき、人は目で見てそれが何の音であるかを確認することでまず安心しようとします。そしてその音を分類し、次に聴いた時はその記憶につなぐことで、目で確認せずとも理解することが出来るようになるのです。もしその機能がうまくいかなかったら、人はすべての音にいちいち反応しなければならず、心はメチャクチャに引き裂かれてしまうはずです。聴こえない人とこうして稽古を共にすることで、聴こえるということに、聴こえてくる音に、どんどん敏感になっていきます。聴こえるということはノイズの海に泳ぐこと。その泳ぎ方を間違えると、きっと溺れてしまうのです。聴こえない人が知っている、本当に静かな世界に憧れます。「ノイズの海」稽古一週目、自分が何を取っ掛かりにして、何を伝えることが出来るのか、今その糸口を見つけようとしています。
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